「これはポストパンクではない」

Chinese Postpunk Anthology という名であれこれ書いたりしていると、ときどき「これはポストパンクではない」といったコメントをいただく。至極もっともな指摘である。 曰く、それはポストパンクではない、それはインディーロックである、それはエモである、それはシューゲイズである、それはノイズロックである、それはダークウェーブである、それはノーウェーブである……うんぬんかんぬん。つまり、彼らはこう考えているのだ、「暗く、冷たく、神経質なギターと歌詞の文学性がポストパンクをポストパンクたらしめるのだ」と。彼らにとっては「ポストパンク」なるスタイルが存在するらしい。いやはや。Cabaret Voltaire、Killing Joke、Pere Ubu、Throbbing Gristle、Swell Maps、Magazine、Devo、Ultravox、Orange Juice、Mission of Burma、Subway Sect、ESG、The Birthday Party、The Monochrome Set、Slits、Wire、The Human League、Joy Division、Suicide、Gang of Four、Aztec Camera、Soft Cell、Cocteau Twins、This Heat、Public Image Ltd.、Bauhaus の共通点を挙げられるものなら、ぜひとも挙げてもらいたいものだ。

ポストパンクの語源

「ポストパンク(post-punk)」というタームが生まれたのは、パンクロックの猛威がレコード業界を席巻していた1977年後半のイギリス。Siouxsie and the Banshees などの新しく現れた多様なバンドを包括する概念としてプレスが用いた「post punk 」が始まりとされる。現在では「post-punk」あるいは「postpunk」と表記されるのが一般的。見てわかる通り、post + punk の合成語だ。

What is it about punk?

そもそも、いったいパンクとは何なのか。 アメリカ合衆国の作家 Rudy Rucker によれば、パンクとは「 fast (速さ)」と「dense(深さ)」によって客観的に定義され、その価値は「How fast are you? (お前はどれだけ速いのか?)」で決定される。 ここでの「速さ」とは楽曲のテンポではないし、「深さ」は文学的な見せかけとは関係なく、情報量として扱われる。思考、会話、情報伝達の速度。感情やノイズやユーモアを圧縮すること。パンクとは加速した情報社会の感覚様式、言い換えれば、情報の処理能力と創造の複雑性である。固定観念や過去の栄光にしがみつく「遅さ」は唾棄すべきものとみなされる。

What is post-?

接頭辞「post-」は印欧祖語に由来するとされ、古典ラテン語においては、基準となる時間や位置の「後ろ」を指す前置詞 post であった。やがて接頭辞として用いられ、ある出来事や状態の「その後」を意味するようになった。近代以降ではさらに抽象化され、歴史的区分を作る役割を担う。単なる時間順序ではなく、ある体系の「後」であると同時に、その体系に依存する歴史区分を定める。体系は批判され、拡張され、変化を余儀なくされても、古い層は依然として失われることなく保存される。

ポストパンクは「パンクの後の時代」のみを意味しているわけではない。大衆化し、そのポーズやファッションが商品化され、安全なクリシェ以上のものではなくなったパンクが、その実効性を失っている状況を含意する。その起点は反制度的な精神だったとしても、それが一種の様式として定着した瞬間、情報密度の低下は免れえない。停滞は「死」と同義である。

ポストパンクのポストパンク性

つまり、ポストパンクは固定されたジャンルではない。それどころか、常に自己否定を内包する自己破壊的な運動だ。その核心価値観はパンクロックのスタイルを継承することにではなく、様式化そのものを内部から解体し続けるダイナミズムにある。あるいは、パンクが急速に様式化される前の革新性を取り戻そうとする不断の試みである。

ファンク、ダブ、ジャズ、電子音楽、ノイズ、前衛芸術。ここでは、ポストパンクはジャンルに固執しない雑種性と理解される。求められているのはスタイルの多様性ではなく、多様性を通じた固定化の回避である。スタイルの融合は別のスタイルを形成することではない。

実際のところ、オリジナルポストパンクと呼ばれるアーティストや、そこに含まれるスタイルの起源は、多くがパンク勃興以前へと遡る。 David Bowie、The Stooges、Television、Pere Ubu、Frank Zappa、Talking Heads、Captain Beefheart、Red Crayola、Roxy Music、Neu!、The Residents、Throbbing Gristle、Devo、The Modern Lovers、Can、そして The Velvet Underground。

ポストパンクが何であるかは起源からの線的な発展史では決して理解され得ない。それは、硬直した形式を内側から食い破り、解体し、再構築する、文脈と条件の中で生まれたそれぞれ独立した運動なのである。加速と解体のエートス。ポストパンクは繰り返し、至るところで、突如として発生する。

中国ロックの父とポストパンク

1986年5月9日、国内のスターを集めて催されたチャリティーイベント「国際平和年記念コンサート」。ここで崔健の歌った『一无所有』から中国ロックは幕を開けた。

この公演を目撃したほとんどの人間にとって、それは見たことも聞いたこともないスタイルであり、驚きをもって迎えられた。これを西洋流行音楽の恥知らずな模倣とみなし、「牛鬼蛇神」と罵りながら席を立った人もあったという。革命歌、流行歌に馴染んだ耳にはその内省的な歌詞も衝撃的なものだった。音楽そのものに加えて、大きすぎるため袖を折り返した作業服を羽織った崔健の姿は、コンサートに参加する他のスターたちに比べ、場違いなほど質素なものだった。みすぼらしいと形容したところで否定できる者はいないだろう。あらゆる面から見て、中国のロックは異質なものとして始まった。

この出来事が画期的だったのは、それまで国内ではあまり表立って演奏されていなかったロック音楽がパブリックな場で公然と演奏されたというだけではない。その音楽は、それまで中国に存在していなかった観念に具体的な輪郭を与えるものであり、また、個人と社会の緊張関係を個人自身の問題として表現する新しい形式であり、たとえばそれは窦唯の「矛盾、虚伪、贪婪、欺骗、幻想、疑惑、简単、善変、好强、无奈、孤独、脆弱、忍让、气忿、复杂、讨厌、嫉妒、阴险、争夺、埋怨、自私、无聊、变态、冒险、好色、善良、博爱、诡辩、能说、空虚、真诚、金钱」にまっすぐ繋がるものだった。

もちろん、当時の中国にもそういった表現がまったくなかったというわけではない。だが、それを他者と共有する枠組みは当時の公式な音楽文化には存在しなかった。

西洋流行音楽への盲従と捉えた人もあれば、「これはロックではない」といった批判も受けた。ロックを聴き慣れた人間にはいささか奇妙なものと聞こえるのは確かである。 崔健は西洋音楽をただ忠実になぞったのではない。中国風な要素の導入は明白である。しかしこれを単なる東西の融合やローカライズと捉えるべきではない。

ここでは二重の異化が働いている。ロックへの中国性の付加、中国音楽へのロック性の付与。 崔健と Talking Heads との間にある相同性はしばしば指摘される。ニューヨークの知識階層に属する白人は、アフリカ音楽やファンクを通じて西洋ポップ音楽の形式を相対化した。中国の音楽と西洋ロック音楽を掛け合わせ、中国流行音楽の輪郭を露わにした崔健はその鏡像と言えるだろう。単に音楽性の影響といった言葉で片づけるよりも、同じ手法で逆の操作を行ったと見る方が実態に近い。

崔健は西北地域の土着的な唱法や北方の伝統楽器である唢呐を導入した。ここで注意を惹くのは、朝鮮族という彼の出自である。 文化大革命の時代を経て改革開放路線に転じ、革命イデオロギーの求心力が揺らぎつつあった中国では、社会全体が新しい自己像を模索していた。当時そこで原風景として措定されたのが、西北の黄土高原だった。東北の少数民族をルーツに持つ北京生まれの青年は、そのイメージを纏って登場したことで、新しい時代の個人を代表する声となった。その象徴的な立場は、ロックが中国人の心情を表現しうることを実証したのだ。

崔健は体制による規制、検閲の殉教者とみなされ、反抗、反骨のシンボルと見られがちだが、国家主催イベントへの参加を厭わない。『一无所有』のコンサートからしてそうだし、1989年以降の彼の沈黙期でさえ。しかし、彼は従順な体制の協力者でもプロパガンダのスポークスマンでもない。歌詞の修正に応じはしない。民族の誇りを高らかと歌いあげることもない。西北風に彼自身ははっきりと距離をおいた。協調と反抗のアンビバレンスは、彼の特殊な立ち位置を物語っている。 彼は政治的な表象を多用しながら、その真意を決して説明しない。語らないことが解釈の可能性を許容し、意味の確定を拒絶する。ある者はそこに政治的反抗を読み、ある者は個人的な苦悩を見出す。聴き手の経験や思想を結晶させるが、作者がそれをジャッジすることはない。そこに正解はない。

ロックの大衆化、主流化が進む中、崔健が追求したのはロックというスタイル自体ではなく、その作り方であった。彼は西洋の現代ロックが表面的な流行によって生み出されているのではなく、オルタナティブ性、アンダーグラウンド性の上に築かれていることを早い段階から見抜いていた。彼の西洋音楽への関心はロックだけに留まらずラップや実験の方へも伸ばされ、90年代の作品には、それが明確に現れている。彼の地下への性向は底流として受け継がれ、反復され、現在進行中のインディーロックの中にも持続する。

中国ロックは既存の制度を逸脱する形式として生まれた。ポストパンクという形式が異なる文脈を結びつけ、その都度異なる自己を浮かび上がらせるものだとすれば、こう言い換えることができる。中国のロックはポストパンクとして始まった、と。

「これはポストパンクではない」?

それでもなお、疑念が消え去ることはないかも知れない。しかし、ポストパンクとは常に中間領域であったことを思い出してほしい。そこでは、体制と反体制は識閾値の下で機能し、どんなものにも別の用途が発見される。名前はいつでも遅れて到着する。

歴史上はじめて 「punk」 と形容されたニューヨークの2人組 Suicide の活動開始は1970年。The Ramones より早い。パンクによるレコード業界の混乱は、それまで日の目を浴びることのなかったこうした奇妙な音楽を言い表す適切な名前を発明した。そして、これまでのところ、それらを表すのに「ポストパンク」以上にふさわしい語は発見されていない。

「これはポストパンクではない」? なるほど、それもひとつの見識ではある。我々の扱う「名」はいつでも不完全だ。今に始まったことではないが。